ウオーキング同窓会7 終わり

介護のためと 店のため 我々二人は 遅れた。

で 日本一と言われる福井県立図書館を見ることが

できなかった、建物もよいし 司書のセンスが最高だそうだ。

柴田勝家の 北の庄。

柴田勝家は名君。 お市の方 娘の美人三姉妹の運命。平山邦夫が

勝家の子孫だと碑があった。ほんま?

ここでも おろそば ソースとんかつをたべる。福井の名産。

昼は 探し探して 京の都の町屋風の食堂で定食千円なり。これがまた

おいしくて。

 

中心街で 同業の薬屋さんを見つける。

堂々たる 高級薬局だ.

このひとだったかなぁ 数年前

バランスターの 女子会で お会いしただけだ。ちがうなぁ???

と 渡辺先生?っと先様が言われる。どこへ行っても あほな私だ。

 

越前和紙を求めて キラリへ。壁飾りの和紙を友人がかう。

わたしは お土産用。いつも折り紙をくださるT夫人に。

自分用に 和紙のモダーンな ペンケース。

みんな満足。あ~~たのしかった 同窓会。

リーダー いつもゆうことをきかんでごめんなさい。

本当は こんな楽しい旅をつくってくださって感謝かんしゃ

また 来年よろしくお願いいたします。おわり

 

 

 

 

ウオーキング同窓会⑥橋本佐内

きれいで りりしくて まっすぐな秘めたる恋人。

昔からのあこがれの人。15歳の時自分で啓発録をかいた。

①稚心(おさなさ)をとる

②気をふるう (奮い立たす)

③志をたてる(目標をさだめる)

④学に努める

⑤交友を選ぶ

この時の彼の5倍も生きて なおこの⑤けは できないなぁ。

代々の藩医。藩内で教育改革をし 国事奔走 世界的視野を持つ。

本当に残念なことは安政の大獄で 早々と斬首されたこと。

26さいだったという

かれが 生き延びていたら また良い明治維新ができていた。

しかし 福井の人々が彼のことをずっと慕ってくれているので ちょっと

救われました

 

 

ウオーキング同窓会⑤日下部太郎 くさかべたろうとグリフィス

幕末に福井藩からアメリカに派遣されて

外国人ながら首席で卒業 しかし 結核で 死んでしまう秀才。

先輩で彼の英語を助けたのが グリフィス。グリフィスは 日下部太郎を

通して日本を知り 福井に着任 ふくいで理化学を教え 日本を深い愛した。明治維新は

西洋の衝撃によってもたらされたのではなく

長く日本の歴史の中で準備されていたと明治維新を位置づける。

真ん中がグリフィス先生

こういう人を 福井の人はあがめている、

福井の町のドライバーのエチケットは 感動ものだった

決して 先を越さない。必ず止まってくれる。心豊かな県民性だと思う。

 

ウオーーキング同窓会④橘曙覧 

福井の町散策 昔からの 好きな じいつっぁまに再会。 あっうれしと思った橘曙覧(たちばなのあけみ)。

福井の出身だったんだ。

天皇皇后を迎えたクリントンが 

たのしみは朝起き出でて きのうまで

なかりし花の咲ける見るとき

をこう使ったという→

It is a plesure when rising in the morning I go outside and find a flower that has bloomed that was not there yesterday そして

100年以上前に詠まれた句ですが時代を超える心です。新たな日と

ともに 新しい花が咲き進歩し 日米両国間に友好をはぐくむものです。

とスピーチされたという。

 

福井は毎年?楽しみはではじまり 時でおわる句を

募集。これがいいなぁ

たのしみは まれに魚煮て 子ら皆が

うましといいて 食う時

たのしみはそぞろ読みゆく 書(ふみ)のなか

我と等しき人をみし時

たのしみは紙を広げて とる筆の

思いのほかによくかけし時

ウオーキング同窓会③停電

宿で 稲光がしたとおもうと停電。 ミーテイング中断。

これがなんと2時間半も続いて まことに誠に大停電。非常灯もきえた。

宿のスタッフは 懐中電灯を配ってくれる。

怪談をして みんなを怖がらす。

うとうととしたと思うと 館内放送。 恐れ入ります。

北陸電力によりますと

まだまだだそうですと放送

寝込んだと思うと また 館内放送

直りました。と放送。その都度

ガバット 寝とぼけて起きる。終戦直後か?

海鳴りが はげしい。

 

 

 

ウオーキング同窓会②

東尋坊から ひたすら北に向かって 暴風雨の中を歩く。

高見順 三好達治らの文学碑。 高見順が 福井県知事の外の息子で

永井荷風の親類だったんだ。へぇ~~~。

前方に朱塗りの橋が見える。 ひたすら歩く。

神の島雄島。神秘的な島で 原生林もあり 大湊神社もあり

海岸線には 柱状節理。島のてっぺんからおりたところにはあまりに

冷たい水で 瓜までわるところから 瓜割というところもありました。磁石岩も初めて見ました。

ちょっと それますが

四国高知。四万十川が有名ですが わたしは 仁淀川のほうが

好きです。 仁淀ブルーは必見。それとおなじで 奇岩ですが

スケールは東尋坊のほうが 大きいですが 雄島の奇岩のほうが

よかった。

      この天候の中 3人のサーフィンが  寄せて 砕けて 裂けて 散る 白波も

ものとせず 波乗りを楽しんでいました。

後方が雄島です。

それから なお北上していると平成9年

ロシア船ナホトカ号が沈没。その漂着碑がありました。日本人のみんなの力で きれいな海を取り戻したそうです。宿につくまでに 20kmは

ほいほいだったことでしょう

 

 

ウオーキング同窓会①

今年は福井県芦原温泉。とりあえず九頭竜川河口の 三国へ

三国龍翔館という五層八角の小学校だった博物館

ここがまた面白くてたのしい。アート トリック(からくり)の展示物も。

こういうときに 頭の良さがでてくる。

私は ひたすら沈黙。何べん聴いてもわからない。

北前船の展示も面白い 天気の良い日は

この丘の上から 白山が見えるという。

さぁ ここから

三国港 サンセットビーチ  荒磯(ありそ)遊歩道から 酒を飲まされ

海に突き落とされた東尋坊へ ひたすら歩く。 東尋坊は まだ怒っているのか みぞれ 暴風 大雨を 起こしている。レインコートが 風船のよう。

みんな 黙って歩く。遊覧船などもちろん今日はでない。

奇岩のとこで みんなは 一歩も下りず上から見ている。

私はおりていったのではありますが

帰りは 文字通り這い這い。なにしろ 暴風雨。命からがら

 

長岡京市訪問記⑤おわり

壽岳潤氏の奥様が編集なさった

追悼集。文化が詰まっている。

この中に 潤さんがよい結婚なさって

一番うれしかったと友達が

かいておられたのが うれしかった。

2011年 潤さんが死なれて 2012年に この追悼集を

彼女が作った。

こういう本だけでなく

研究会が続けて行われること。 関係ある人たちが

こうやって壽岳家の功績を 検証していくことは

私たちにとっても勉強になる。

何よりも面白い。学者の世界? なんて思わず

素直に勉強させてもらおうと思う。

深くて 広い壽岳家の宝の山。知らない世界を見せていただいて

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

長岡京市訪問記④

次の先生は 東京都市大学の名誉教授。文章さんのお弟子さんで

とっくに90歳は超えておられるが 2時間立ったまま大きな声で

文章さんの和紙のお話。こちらの先生のお話は わたしにもわかりやすく面白かった。

ひとつ わかった。学者は長生き。そして ボケん。

吉田茂の息子の英文学者吉田健一がペンクラブフランス大会で

フランス語であいさつ 将来紙は無くなると。ひぇ~~もう何十年

も前。スマホが紙を駆逐している。由々しきことだと。それはこの先生。

オクスフォード辞典でもどんな辞書でも 見てごらんん。あんな薄い紙でも裏に写ってない、 あ~^ ほんまだぁ。

文章さんは 正倉院の紙の研究もされたと。

パピルスの話から 越前の紙から 書誌のはなし。素人にもわかりやすくて面白い。

日本の紙は世界でもトップクラスです。

江戸末期から 外人がどんなに感心していたか。

それが 年に20軒も30軒も紙問屋がつぶれてますとか

挙句の果てに 宿題を出しますと 江戸時代の中之島の

地図を出されて これを熟視したらわかる。当時の紙問屋を

さがしてきなさい。と。    →

鬮前(くじまえ)という言葉をおしえてくださった。おみくじのこと。こよりなどで

くじをつくった。この地図に鬮前の場所がある。熟視して 分析して 想像して 見つけて来いとおっしゃる。

途中で ドイツ語らしいのを 早口で言われて あけっらか~~んとしていたら 何人かが 反応される。 あとで あれなにを いうちゃったん?と

見ず知らずの人に聞きに行った。

あれはドイツ語で シューベルトのわらべは み~~たりの 歌詞です。

ひぇ~~ なんでわかるん? あっ 父が あの歌詞でよく歌っていました。

あ~そうだ。ここの皆さんは 学者さんばっかりじゃった。

学者も一代ではでけんのんですね。場違いなものは びっくりすることばかり。