太田市訪問記② 石見銀山

16世紀に 発見されて 17世紀には すでにヨーロッパで 良質の銀が 世界一とれてることが

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有名であった石見銀山。 70年ほど前まで 掘っていたそうだ。坑道のことを間歩といって 600ぐらいあるらしい。

龍源寺間歩が 公開されているのではじめて行った。秋芳洞などの 鍾乳洞を想像するとわかりやすい。しかし 一人が入れるほどの

狭いところで 発掘していたのだから大変な労働であったろう。400年前は 太田市は20万人もいたそうだ。今400人。

太田市の学者が 笠岡へ マスクを教えたとか酸素管をおしえたとか  姉妹都市のご縁で 教わった。唐突ですが

毛利元就は なにはともあれ 家は代々続かなければならない。 三本の矢の教えで 兄弟仲良くしろと 家は絶えてはならないと

教えてきた。 その毛利は 石見銀山を手にして 豊かであった。時は移り 関ヶ原の戦い。豊臣について毛利は 負けた 毛利輝元は

家康に石見銀山を 差し出してかろうじて お家断絶を免れた。 300年後の 長州だ。

太田市の駐車場に 西南の役の 碑。